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2008 年10月25日 高橋 俊二
ポンセのジェダに関する記録

(The Red Sea and Adjacent Countries at the close of Seventeen Century)


 

ポンセのジェダに関する記録

 

17世紀末の紅海とその周辺の国々」

 

ハクルート協会(Hakluyt Society)

ウィリアム フォスター卿(Sir William Foster)編集

ジョセフ ピッツ(Joseph Pitts)原作

ウィリアム ダニエル(William Daniel)原作

チャルル ジャック ポンセ(Charles Jacques Poncet)原作

1949年にロンドンで発行

(The Red Sea and Adjacent Countries at the close of Seventeen Century)

 

17世紀末の紅海とその周辺の国々 (The Red Sea and Adjacent Countries at the close of Seventeen Century)」はジョセフ ピッツ(Joseph Pitts)、ウィリアム ダニエル(William Daniel)およびチャルル ジャック ポンセ(Charles Jacques Poncet)の記述をハクルート協会(Hakluyt Society)のウィリアム フォスター卿(Sir William Foster)が編集し、1949年にロンドンで発行した記録である。この原本と成ったフランス語版が何時初版されたか確認出来ないが、この記録に掲載された英訳再版は翻訳者の名前を記述しない儘で1709年に出版されている。

 

ポンセ(Poncet)のジェダ(Jiddah)に関する記録

 

ゲッダ(Gedda)は海岸にある大きな町で、メッカ(Mecca)から半日の行程にある。この港(あるいは錨地・停泊地と言うべきか)はとても安全であるがその入り口は北西を向いている。そこでは幾つかの場所では十分な深さがあり、小さな舟は浮かんで居られるが、大きな船は1リーグ(league)3マイル)以内には近寄れない。私は海岸に行き、宿屋(oquel or inn)に宿泊した。宿屋(oquel)は三階建てで、大きなアパートメントをそれぞれの側の各角に持ち、その内側は中庭になっていた。最下層は貯蔵や糧食の為に空けられていた。旅行者は上階を使っていた。 

 

 

(ここをクリックすると図が拡大します。)

(クリックした後、左上にカーソルを置くと右下に拡大マークがでます。)

 

この国にはトルコに僅かあるだけで他には宿は無かった。しかし、ゲッダ(Gedda)にはこの様な宿が幾つかあった。旅行者は降り立つと直ぐに部屋と自分の荷物を保管する場所を探す。この為に旅行者は主人に規定の料金を支払う。その料金は決して増えも減りもしなかった。私は4クラウン(crown)2部屋と1屋根裏部屋(a garret)と台所を1ヶ月借りるのに支払った。これらの宿屋は聖域で神聖な場所であり、無礼な振る舞いや略奪から守られていた。そこで一番不自由であったのがそこでは貴方は全てを整えて居なかったので貴方自身の家具を買わなければ成らないし、召使いを持たなければ肉を買って下ごしらえをしなくては成らなかった。

 

私がゲッダ(Gedda)に到着して2日目にメッカ(Mecca)の王様があちらから2,000人の軍隊と共にやって来た。王様はメッカへの門で自分の天幕を張り、野営した。私は王様を見た。王様は60歳位で、威厳のある風貌をしており、そして少し恐ろしく見えた。王は下唇の右側に隙間があった。王の家来と隣人は柔和さや寛容さについて余り褒めては居なかった。大君(the Grand Signior)の為にゲッダ(Gedda)に住む知事(the Bacha)に王は15,000クラウン(crown)の黄金を要求し、もし、知事(the Bacha)が直ちに従わなければ、軍事遠征すると脅した。大君(the Grand Signior)の部下であり、交易の為にそこに定住している全ての商人を脅かし、商人達に30,000クラウン(crown)の黄金を支払う様に強要した。常に大人数で王をこの国の主人にしている軍隊にこの二つの金額を王は分配した。

 

(注)1クラウン(crown)1544 年から1965年まで5シリング(shilling)と等価であり、試算すると5シリング(shilling)は現在の邦貨で約16,300円相当となり。30,000クラウンは約5億円に相当する。

 

ここにはメッカへの巡礼の隊商がインド諸国やトルコから毎年やってくる。ここには何人かの非常に金持ちが居り、商人達は自分達の商品をインド諸国からヨーロッパへ、ヨーロッパからインド諸国へ運ぶ為に、金持ちの隊商に自ら加わった。これらの隊商(caravan)がメッカに着くと盛大なバザーが催された。そこでは無限の数のムハンマド教徒の商人達(Mahometan merchants)が世界の四分の三からの最も価値にある商品を持って相まみえ、物々交換を行った。1699年から1700年にはメッカの王様はインド諸国及びトルコからの隊商を略奪する為に浮かれ騒いでいた。

 

この王族(this prince)は預言者マホメト(Mahomet)の子孫を装い、自分自身をシェリフ(Cherif)或いは傑出した高貴な人と呼んだ。大君主(the Grand Signior or Sultann)は長い間、この王国の認証を与える権限を有していたが荒々しく傲慢な王(Cherif)は軽蔑してエブン マムルーク(ehn mamluq)(奴隷の息子)と呼んで、大君主(the Grand Signior)への臣従を止めてしまった。メディナ(Medina)が王の首都であった。メッカ(Mecca)がマホメト(Mahomet)の生誕地として有名な様に、そこはマホメト(Mahomet)の墓が在るので有名であった。王は殆ど常にその軍隊の指揮をしていたので、あまりメディナ(Medina)には居住しては居なかった。トルコ人達がメディナ(Medina)来た時に、トルコ人達は敬意を示すために服を脱ぎ、腰から上にはスカーフだけを巻いた。トルコ人達はこの姿で9から12マイル(three or four leagues)までやって来た。このやり方を受け入れたく無い者達はマホメトに敬意を表して生贄を調達する為の金を支払った。

 

ゲッダ(Grdda)はメッカ(Mecca)の隣であると云う理由からキリスト教徒、特にヨーロパ人であるヨーロッパ人(Europeans)の典型であるフランス人(Franks)が定住出来る場所では無かったし、ムハンマド教徒(Mahometans)はそれを許さなかっただろう。それにもかかわらず、偉大な交易相手が居た。インド諸国から戻って来た全ての船はゲッダ(Grdda)の投錨地までやって来た。大君主(the Grand Signior)はこれらの海で商品を運ぶ為に30隻の大型船を雇うのが常であった。これらの船は100門の大砲を備えるのに適していたが、全く大砲を搭載しては居なかった。多くの異なった国々から大量に集まる群衆の為に、水に至るまでゲッダ(Gedda)では全てに価値があった。パリ(Paris)の我々の尺度での水の1パイント(pint0.57 liter)12マイル(four leagues = 3x4 = 12miles = 12x1.609 = 19.3km)先から運ばれてくるので2 ペンス(pence)から3ペンスの価格がしただろう。(1ペニー(penny)1/12シリング(shilling)=1/240英ポンド(pound)

   この町の城壁は何の役に立たなかった。海に向かっている砦は少しは増しであるが、防衛の為に数門の大砲は備えてはいるけれども、包囲には耐えられる作りではなかった。家々の殆どは石で作られ、東洋風に平らな屋根をしていた。

 

町からマスケット銃(musket)で二回分の射程の海への土手の上に私は墓を見つけた。彼等は私にこの墓が人類の最初の母であるイブ(Eve)の物であると保証した。ゲッダ(Gedda)を取り巻く地方は非常にいやな場所であった。不毛の岩と砂だらけで未墾の場所以外は見る物は何も無かった。私はメッカ(Mecca)を見たかったが、死の痛み無しにキリスト教徒がそこに現れるのは禁止されていた。誰かが間違って認識していた様にはゲッダ(Gedda)とメッカ(Mecca)の間には川は無かった。そこには泉が一つあり、そこから彼等はゲッダ(Gedda)で飲む水を得ていた。

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