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2008 年10月25日 高橋 俊二
ニーブールの旅の物語

( Reisecbeschreibung nach Arabien und andern umliegenden Ländern)


 

ニーブールの旅の物語

 

「アラビアとその周辺の旅行記」

 

カルステン ニーブール(Carsten Nieburhr)

コペンハーゲン(Copenhagen) 1774 - 1778年に出版

(Reisecbeschreibung nach Arabien und andern umliegenden Ländern)

 

18世紀にデンマーク政府は、最も肥沃な部分のアラビアすなわちイエメンを科学的に調査する使命を帯びた探検隊を派遣した。探検隊のデンマーク人達(the Danes)1761年にコペンハーゲン(Copenhagen)を出発し、カイロ(Cairo)に到着した。続いて駱駝隊商でスエズ(Suez)まで問題なく旅をし、1762830日に到着していた。シナイ(Sinai)の古代碑文を調査した後、科学者達は巡礼船で紅海を南下し、古代の港トール(Tor)やイエンボ(Yenbo)を通過し、17621029日にジッダ(Jiddah)に上陸した。その後、イエメンおよびインドへの航海での途中で、ニーブール(Niebuhr)の仲間はマラリア(malaria)、疲労困憊、栄養失調で一人一人死んで行った。回復力のあったニーブール(Niebuhr)でさえ、マスカット(Muscat)、ペルシア(Persia)、メソポタミア(Mesopotamia)、シリア(Syria)およびキプロス(Cyprus)経由で帰還する前に14ヶ月ボンベイ(Bombay)に留まった。ニーブール(Niebuhr)は最後の4年間を一人で旅してコペンハーゲン(Copenhagen)1767年末に戻り着いた。

 

この運の悪い使節の唯一の生存者となったカルステン ニーブール(Carsten Nieburhr)はこの旅をニーブールの旅の物語」として自身で1774年から1778年までに著作し、「アラビアとその周辺の旅行記(Reisecbeschreibung nach Arabien und andern umliegenden Ländern)」との題名を付け、コペンハーゲン(Copenhagen)で出版した。

 

この著作の英訳は「アラビアとその他の東方の国々の旅行(Travels through Arabia and other Countries in the East)」と題され、エディンバラ(Edinburgh)1792年に出版された。この本はベイルート(Beirut)で日付無しに再版されているが、「カルステン ニーブール(Carsten Niebuhr)とその仲間の冒険と業績」の英語による完全な翻訳は、デンマークの1761年から1767年も遠征についての記述として、「アラビアのフェリックス(Arabia Felix)」との題名を付けられ、、H. ソールキルド(H. Thorkild)によってロンドン(London)1964年に出版された。

 

「ニーブールの旅の物語」の仏訳再版は 「アラビアと隣接するその他の国々へのニーブールの旅行記」と題されて、1779年にパリで出版され (Description de l'Arabie d'après les observations et recherches faites dans le pays même par M. Niebubr Paris 1779.) 又「ニーブールの旅の物語」の蘭訳再版はM. ニーブール著で「アラビアと隣接するその他の国々への旅行記(Voyage en Arabie et en d'autres pays circonvoisins par M. Niebubr)」としてアムステルダム(Amsterdam)1776年に出版されている。

 

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上の挿し絵はデンマークのアラビア探検隊のバウレンフェインド(G.W. Baurenfeind)が作成した1762年のジッダの彫版である。 ジッダの漁師(魚を担いでいる)、 南西から見たジッダ(Jiddah)の町の景色、 マルセーユ港の風景、④ジッダ(Jiddah)でパンを売る女(not available)

 

ここでは1792年にエディンバラ(Edinburgh)で出版されたニーブール(M.[C.] Niebuhr)著「アラビアおよびその他の東洋の国々の旅行記(Travels through Arabia and other Countries in the East)」のジェッダに関する記述である第1226 – 239頁の「第IV ジッダとその近傍」と「第V章 ジッダの政府と交易」を紹介する。

 

「第IV ジッダとその近傍」

 

私達はその住人からの不快な扱いを非常に懸念しながらこの市に入った。「カイロでキリスト教徒が何と侮辱されているか」、そして「ジャムボ(Jambo)でアラブ人によって私達の仲間が如何に侮辱されてきたか」を思い出しながら、「私達がイスラムの聖なる市に近づくに連れて、イスラム教徒(the Mussulmans)の不親切な傲慢さ(insolence)を更に一層経験するのではないか」と恐れていた。しかしながら、私達はその期待を快く裏切られた。ヨーロッパの服装をしたキリスト教徒の商人に大変馴れているジッダの住人達は私達に出現を訝る事も無く、私達に注意を払っている様子も無かった。私達は侮辱を受ける様な事も無く、自由にコーヒーハウスや市場に行けた。しかしながら、イスラム教徒(the Mussulmans)以外はメッカに向かって開いている門を通り過ぎる事も、近くずく事でさえ許されて居らず、従って私達は見つから無い様にこの門から注意深く離れていなくては成らない事が分かった。

 

私達への推薦状は私達にとって非常に有用であった。オスマントルコ政庁(the Porte)へのデンマークの(Danish)大使であったゴウエラー(Mr. Goehler)はコンスタンティノープル(Constantinople)でジッダ知事(the Pasha of Jidda)と個人的に知り合いであり、従って、知事に私達を託していた。私達はカイロの著名な2人の商人からジッダの代表的な2人の商人に対する手紙も持っていた。貧しいシェク(Schech)は私達に知事の副官であるキアジャ(Kiaja)宛の1通の手紙をくれていた。この手紙の推薦はあまり当てにしては居なかったにもかかわらず、私達にとっては他の全ての推薦状よりも役に立った。シェク(Schech)はカイロのジャミア アシャール(Jamea-de-Ashar)協会(academy)の主要会員の1人の秘書であった。シェク(Schech)はトルコのヨーロッパ領で生まれ、科学に関してはヨーロッパ キリスト教徒が優れているとしばしば聞いており、私達を頻繁に訪れ、私達から情報を手に入れるのを熱望して居ていた。シェク(Schech)は眞に価値のある男で、完全に迷信(superstition)から開放され、全ての人種と友達であった。ファルスカル(Mr. Forskal)と自分は植物学と天文学の初歩を教えた。シェク(Schech)の役割は私達にとって非常に有用であり、私達のアラビア語の実践やシェックから聞かなければ知らなかった多くの事の説明を得た。シェクは若い頃にキアジャ(Kiaja)に講義を行っていた。シェクは私達が知らない内に最後の隊商でシェクの古い友人が私達に好意を持つ様に書いてくれていた。シェクはこの他にキアジャ(Kiaja)宛の手紙を私達にくれた。

 

私達には全ての手紙を手渡しで配る時間が無かったので2人の商人宛の手紙はこの2人が私達に宿舎を提供してくれる様に祈りながら召使いに託した。しかし、2人が私達が大勢であるのが分かると「これだけの人数を収容できる家を見つけるのは不可能である」との口実で断ってきた。私達の人数が少なければ公共のカン(Kan)に部屋を取れただろう。この様にして私達が宿泊場を失った時に、私達のギリシャ人の召使いがメッカのシェリフ(Sheriffe)の金細工師であり、この市の主な人物に大変信頼のある同国人の1人に宿舎探しを依頼した。この金細工師は「キアジャ(Kiaja)が私達の来訪の前もっての通知を受けており、キアジャ(Kiaja)から出来る限りの接遇を命じられている」と私達の召使いに告げた。キアジャ(Kiaja)は一晩、自分自身の家を私達に提供し、更に次の日まで一軒全てを使わせると約束してくれた。

 

この知らせを受けて、私達は直ぐにシェク(Schech)のキアジャ(Kiaja)宛の手紙を届けた。キアジャは私達を鄭重に迎えてくれた。その後も、私達は頻繁にキアジャに会いに行った。ヨーロッパの習慣や礼儀に対するキアジャの質問に対する答えの中で、私達はキアジャやその友人達に彼等が以前から抱いていたよりももっと公正で好意的なヨーロッパ人の概念を伝えた。アラビア人は私達を私達が中国人を見るのと同じ軽さで見ていた。アラビア人はアラビア人をもっと啓発された高貴な人種であると見なしており、アラビア人が私達ヨーロッパ人を第2番目と考えるのは非常に名誉を与えていると考えていた。キアジャは天文学について語るのを得意としていた。キアジャをしょっちゅう訪ねているファルスカル(Mr. Forskal)は庭園を家の近くに作り、メッカではバルサム(balm)を生産している灌木をこの国の内陸から持って来て植える様にキアジャを説得した。バルサム(balm)はジッダでは純粋には手に入れられないばかりか、ここに到着する前に付着した物質と混ざり合って一般的には汚染されてしまっているので、尚更、アラビア人はこれを幸福な事と考えていた。

 

数日後に私達の推薦状を知事(the Pacha)に提出した。知事もまた、天文学に関する幾らかの知識を持っており、私達の所有する機器を見たがった。知事はこれらの機器が東洋で使われている物よりも品質の高いと考え、これらの機器を自分に仕える学問のある一人のトルコ人シェク(Schech)に見せた。知事とそのシェク(Schech)は私には分からないトルコ語で喋っていた。しかしながら、私達には十分な通訳がおり、その他の中にも知事に仕える3人のフランス語とイタリア語のイスラムに改宗したキリスト教徒(renegado)が居た。それでも、彼等は科学用語は自分の母国語でもトルコ語でも知らなかった。結果として自分は知事に自分自身を十分に理解して貰えなかったし、この問題に関する私達の会話は長くも深淵でも無かった。キアジャとはアラビア語で話さなければ成らなかったがアラビア語の科学用語を知らないにせよ会話はそれ程難しくは無かった。

 

111日に家を賃貸した後、私達は私達の持ち物(effects)をこの市内に移動する前に通関の為に税関へ運んだ。そこではキアジャを知っているので或る程度は私達が親切に接して貰っているのを観て喜んだ。官吏は自分の事務員達をその周りに集め、商人達の品を11個吟味する為に少し高い所に座ったが、その官吏は私達のトランクを開ける事に満足しており、それらのトランクを空にはしなかった。税関の官吏達は指示している様に振る舞う時の心付けを期待していた。私達の費用の管理を行っていたシェリフ(Sheriffe)の金細工師は私達の名で彼等に些細な心付けを公に与えていた。

 

天文学者を含むヨーロッパ人の一行が到着したニュースは直ぐにメッカに届いた。統治していたシェリフ(Sheriffe)の兄弟はその時にこの市を攻撃すべく軍と共に進撃していた。ムハンマドの信奉者(the Mahometans = the Muhammadan)には天文学者は常に占星術家(astrologer)と見なされていた。従ってシェリフ(Sheriffe)も自分のギリシャ人金細工師に「自分は独立国としての力を維持すべきか或いは自分の地位を兄弟に譲るべきか?」と私に尋ねる様に指示していた。将来の出来事に関して私が知識に欠け、そして私は航海技術を向上させるだけに天文学を修めているので、この手紙の答えを返すのを辞退した。しかし、フォン ヘイヴン(Mr. Von Haven)は二人に関して「この家族の始祖であるハッサン(Hassan)への偉大な類似にうんざりしている彼は勝利者であり続けなければ成らない」と回答した。この回答はもっと幸せそうに「現在の支配者であるシェリフ(Sheriffe)は自分自身を王冠の上に座らせる続けられる事も出来る」と明かしていた。

 

ジッダの或る貴族は私に自分が失った200ゼッキーノ(sequins)を盗んだ泥棒を発見する様に私に尋ねた。私は前者の場面と全く同じ言い訳を理由として述べた。するとその貴族は私よりも優れた占星術師(astrologer)である有名なシェク(Schech)を使った。そのシェク(Schech)はその貴族の召使い全員を集め、一列に並ばせ、そして長い祈りの後、各々に折り畳んだ紙片を口に入れさせ、「無実の者達がそれを飲み込んでも安全だが、罪を犯した者が飲み込みと喉を詰まらせるだろう」と告げた。一人を除いて全員がその紙を飲み込んだ。その者はそれ言葉に驚かされ、動揺し、盗みを白状し、盗品を返した。

 

その貴族は「エジプトの君主であったスルタン エル グリ(Sultan El Guri)であった」と言われていた。スルタン エル グリは1514年にポルトガル(Portugeses)からジッダを守る為にジッダを城壁で囲み、それがジッダが紅海で侮りがたい存在となった始まりであった。これらの城壁はまだ立っていたが、今では多くの場所で馬に乗ったままで越えられるほど荒廃してしまっている。橋も同じく無防備の状態に成っており、大砲を取り除かれた城壁に荒廃した境界がこの町を防御する全てであった。知事府(the palace of the Pacha)の前の数門の大砲は入港する船に祝砲を返す以外の何物でも無かった。この宮殿はオスマン帝国の他の知事の館の様に可も不可もなかった。しかしながら、この市には幾つかの珊瑚礁の石で造られた精巧な建物があった。しかし、他の家々はこの国中のアラビア人の普通の住居と同じ様にもろい木造構造であった。

 

この市では水が全く欠乏(destitute)していた。丘の間にある水たまりからアラビア人が採取し、そこから駱駝の脊で運ばれてくる水以外に住人は飲むものは無かった。

 

カイロのトルコ人に近い服装をしているので、この地の人々が区別できる。しかし、ズボンを穿かずにシャツだけの貧しい服装であった。隣接している地域のベドウイン(Bedouins)は腰の周りにイッフラム(the Ihhram)を纏っているだけであった。身分の低い女達の服装も、大きな下履き(drawer)、なだらかにたれているシャーツおよびベール等一般的にアラビア人の女性達が着るのと同じであった。多くの貧しい人々が漁業に従事しているが、漁業では貧弱な生活を送る以上の稼ぎは無いようであった。

 

この市の周囲直ぐに横たわる国は砂だらけで不毛であった。もし、私達が伝統を信じるならば、これらの地方はその創設から変わって居なかった。イヴの墓は海からそれ程離れて居ない場所に見られた。しかし、私は他の場所同様にここでも海が陸地から後退していった証拠の幾つかに気がついた。陸から一定の距離に完全に珊瑚岩で出来た丘があり、海岸に沿って並んでいる珊瑚礁の浅瀬と完全に似通っている。

 

私が港に沿ってあるいている時に、私はある作業を観察す機会を得た。それはアラビア人の鴨狩りである。獲物を探している人間は裸になり、海草を頭に置き、鳥に近づく。海草には注意を払わない鴨はアラビア人が足を捕まえるまで水をかいて動いている。ポーコック(Pococke)やその他の数人の旅行者達は中国でのこの様に野生の鳥を捕らえるやり方を話した時に信用されなかった。しかし、事実で無い事がもっと確実らしかった。

 

(注)リチャード ポーコック(Richard Pococke) (1704 - 1765)は英国の旅行家でシリア、メソポタミア、エジプト等へ旅をし、紀行としてまとめた。アルピニストの草分けでもあり、アイルランドのオソリー(Ossory)の主教でもあった。ニーブール (Niebuhr)はここでポーコック(Pococke)を引用している。ポーコック(Pococke)1737年から1742年まで中東(the Orient)を旅した紀行文「東洋と幾つかのその他の国々の記述(A Description of the East and some other Countries)」を執筆し、ロンドンで1743 - 1745年に出版した。

 

第V章 ジッダの政府と交易

 

ジッダは常にメッカのシェリフ(the Sheriffe)の支配下の一部であった。トルコのスルタンは実際に知事(the Pacha)をこの市に送って居たが、知事はこの市の絶対的な支配者では無かった。最高の権威はシェリフ(the Sheriffe)とトルコの知事の間で共有されていた。トルコの知事は毎年交替し、この為、私達がジッダに滞在している間の事例でも現在のキアジャ(Kiaja)にしている様に知事(the Pacha)に従うのを時々は拒否していた。

 

シェリフ(the Sheriffe)はヴィシエール(Visier)と呼ばれる自分の官吏(officer)をこの市での自分の代表者として駐在させていた。ジッダの住民はシェリフ(the Sheriffe)の臣民としてヴィシエール(Visier)にのみ従属していた。この官吏(Visier)は常にシェリフ(the Sheriffe)の親族で支配力にあこがれている者達の間から選ばれた。高貴なアラビア一族の子孫は価値ある生まれの判断の前に比較するのを快く受け取ら無いだろう。

 

関税から上がる歳入はスルタン(Sultan)とシェリフ(the Sheriffe)で分け合っていた。その為にキアジャ(Kiaja)とヴィシエール(Visier)は商品が検査される時には常に一緒に立ち合って居た。関税は税官吏が独断的に見積もる商品価格の10%に定められていた。この様に関税は同じであると考えられていたが、実際には12%15%であった。しかしながら、英国はスルタンの臣民よりも特に厚遇されていた。英国人は僅か8%しか払わない上に、他の全ての者が現金で支払わねばならないのに商品での納税を認められていた。

 

ジッダの交易がこれほど無視できない規模であるにもかかわらず、エジプトと印度の間にある一市場以上の存在では無かった。スエズ(Suez)からの船がこの港を越えて航海するのは稀であり、印度からの船もスエズまで航海するのを許される事も無かった。スラト(Surat)からの船の船長は或る年、ジッダ港に入港するには余りにも北まで吹き寄せられ。スエズに向かいそこで積み荷を荷揚げした。しかし、この船長は次の年にジッダで監獄に入れられ、そしてスエズで陸揚げした商品に対してジッダで課税されていたであろう税金全額を支払わなければ成らなかった。

 

有利な条件の為では無いにせよ、スエズでの交易は非常に僅かであった。周辺国は取引の目的としてタイフのアーモンド(Taif almonds)以外に何も無くても差し支え無かった。その中でも本当に英国は年間5,000ハンドレッドウェイト(five hundred thousand weight)を印度へ運んでいた。メッカバーム(balm)も又、メディナの近傍から輸出用商品としてここに運ばれてくる。

 

メッカとメディナの両市ともこの市場からの供給を受けているので輸入品はもっと多かった。大量のトウモロコシ、米、レンズ豆(lentiles)、砂糖、油等がエジプトから輸入され、これら無しではアラビアのこの地方の生活は成り立たなかった。ヨーロッパからの商品も又、エジプト経由で渡来した。その一方で印度からここに運ばれた商品は一般的にエジプトへと中継されていた。

 

カイロに長く住んでいたメイレット(Maillet)は「印度交易を紅海経由で行うのはヨーロッパ諸国にとっては有利である」と思い込んでいた。しかし、船がジッダ港を通過するのを許されるかどうかは疑わしい。現在、二つの港の間の交易を行っている船の所有者がカイロでは一番まともな商人なのでヨーロッパ船はスエズで多くのインチキやペテン(fraud and chicanery)にあうのはほぼ間違いないだろう。それ以外に、きびしく取り立てられる法外な税金は交易の利益を大きく削ってしまうだろう。しかし、ヨーロッパ商人がジッダに定住するのを妨害される事はほとんどない。或る英国人はここに数年にわたって住んでいる。

 

この交易の状態に常に好ましくない影響を持つ環境とはここを支配している政府の財政状態の悪さである。引き続く歳入の欠乏の中で政府は商人達に次年度の税金の一部を前納する様にしばしば要求し、それが納める時期になったらこの前納分を値引きすると約束している。しかし、この前納分が納入されると毎年、累積し、返納させる事はないだろう。英国は課税をまだ納めて居なかったが、英国商人の断固とした拒絶は政府の役人と継続的に反目し合っていた。

 

この州では貨幣の鋳造は行われて居らず、ここでの正貨(specie current)は全て外貨であり、それはコンスタンティノープル(Constantinople)およびカイロと同様であった。しかし、小さな貨幣はここでは貨幣を鋳造する何処よりもむしろ多いので大きな貨幣はここではカイロよりも高いレートで流通している。巡礼が旅費と施しを支払う為にこの国と聖なる市に小さな貨幣を豊富に持ち込んできた。施しは巡礼がその旅の間、授け続けなければ成らなかった。小さな貨幣はこの国から持ち出される事は決して無く、その結果、この州も絶対的に小さな貨幣の方が余り気味であった。

 

私はトルコ交易兵(the trading janissaries)と話す機会があった。彼等は近衛兵に入り込んだまともな商人であり、軍隊の恩恵によってそうでなければ旅の途中で賦課される課税から免除されている。しかし、トルコ交易兵は兵役を負わないし、給与も支給されていない。この様なトルコ交易兵は民事統治者から独立しており、自分の所属している軍隊の将校以外の裁きには従わない。トルコ交易兵は自分達の荷物と糧食を運び為のトランク1個と行李2個に対する免税も享受している。しかし、荷物と糧食の代わりにトルコ交易兵(the trading janissaries)はトランク1個と行李2個に自分達のもっとも価値のある商品を詰め込む。

 

この様にして、重みを付け、トルコ兵仲間を支援・保護する体制が常に整っているこの強力な集団からの保護を保証される為だけに船の船長や水先案内人の或る者達がトルコ交易兵に混じって居たのを見ている。これはこの様な交易兵がトルコ人同胞と特典を共有して居なかった為である。

 

  

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(注)オスマン帝国(Ottoman)はその防衛を奴隷部隊に頼っていた。その中でも精鋭部隊をジャニッサリ(Janissaries)と呼んでいた。この名はトルコ語の「イェニセリ(yeniceri)」即ち新軍「new army」を意味していた。その部隊の隊員は奴隷であり、殆どは少年時代に誘拐され、徹底的な訓練を受けていた。

 

私達がジッダに居た間に、自分達の商品が課税の為に厳しく調べられているのに怒ったトルコ交易兵商人は彼等が不当と呼ぶ行為からこれらの仲間の助けを得て、自分達自身を守るために威嚇した。キアジャ(Kiaja)とヴィシエール(Visier)は知事(Pacha)は税関に立ち合わせる為にスルタンの軍隊に強力な分遺隊の派遣を命じた。そして反乱者(mutineers)はこの様にして鎮圧された。しかし、私達の出発の後でトルコ兵達(janissaries)は武器を集めた。これによって知事(the Pacha)は幾つかの大砲に首謀者の集まっている家を狙う様に命じた為に、全ては静かになった。

 

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