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2008月8月31日
 マッカ・ムカッラマ(メッカ州)

(サウジアラビア王国西部地方)

その1 悠久な東西交易の中継港ジェッタ

1-4大航海時代とジェッダ)

1. 東西交易へのポルトガルの侵入




 

目次

1.1 喜望峰まわりインド航路の開闢

1.2 重武装艦隊の残虐な海賊行為

1.3 カリカット艦隊との海戦(15032月)

1.4 チョウルの戦い(15081月)

1.5 ディウ沖の交戦(15092月)

1.6 インド洋全体へのポルトガル覇権確立

1.7 マムルーク朝遠征艦隊によるジッダ要塞

1.8 新造マムルーク朝艦隊による再攻勢

1.9 優柔不断なポルトガル国



1.1 喜望峰まわりインド航路の開闢

 

ヴァスコ ガマ (Vasco da Gama)は喜望峰まわりのインド航路を開闢し、1499829日にリスボン(Lisbon)に帰着した。

 

 

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その後、最初にインドに向かった交易艦隊の提督は若い貴族のペドロ アルヴァレス カブラル(Pedro Alvares Cabral)で、13艘の艦船を率いて150039日にリスボン(Lisbon)を出航した。カブラル提督はインドに到着するとカリカット(Calicut)のヒンドゥー教の王ザモリン(Zamorin)と友好的関係を樹立しようとした。交渉は不調に終わり、カリカット(Calicut)では戦闘となってしまったが、コーチン(Cochin)やカナノア(Cananore)等では交易する為の緩和策や優遇措置を受けるのに成功した。カブラル提督は全ての積み荷をこの地方の商品と交換する為に売り払い、最終的にアフリカ東岸のマリンディ(Malindi)経由でリスボン(Lisbon)に向けて帰航した。

 

vamam.org/blog/achives/history_india/

16世紀のカリカット(Calicut)の風景画」

1577年ケルン(Cologne)で出版されたブラウン(G. Braun)著の"Civiitates Orbis Terrarum)"よるインドのもっとも有名な商業中心地カリカット(Calicut)の16世紀の風景)。16世紀には「カリカットの富」はことわざにもなっていた。ジェノバ人(the Genoese)のニコラ カネリオ(Nicola de Canerio)1501/1502年に描いた地図には次の様な語句が刻まれていた。「これはカレクト(Calequt)で、ポルトガル王(KIng of Protugal)でもっとも名声の高いマノエル殿下(the prince D. Manoel)によって発見されたもっともみごとな市である。ここには品質の良いの多くの安息香(benjamin)や胡椒(pepper)および多くの地方からその他の数々の物資がある。それらの物資には肉桂皮(cinnamon)ショウガ(Ginger)、丁字(Clove)、香(incense)、白檀(sandalwood)および全ての種類の香辛料、高価な石、高価な真珠および小粒真珠(seed pearls)等が含まれていた」。

 

カブラル督が率いる第一次インド交易艦隊が帰還する前であったが、ポルトガルの金持ち王(Fortunate')と呼ばれたマヌエル一世(Manuel I)(1495-1521)はジョアン ノヴァ(João da Nova)の指揮下にもう一つの艦隊を準備し、インドに派遣した。ダ ノヴァ提督(Da Nova)はインドの領海に到着するや否や、海上での最初の敵対行為に遭遇した。攻撃者達は侵入者を殺すための全ての可能性を用意していたカリカットのヒンドゥー教の王(ザモリン)(Zamorin of Calicut)の手勢であった。ポルトガル艦隊は数では劣って居たけれども、火力では攻撃者達に優る有利な立場にあったので、攻撃者達を圧倒的に打ちのめした。

 


17th century painting of Manuel I.

http://en.wikipedia.org/wiki/Manuel_I_of_Portugal

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1.2 重武装艦隊による残虐な海賊行為

 

カブラル提督によってもたらされた交戦と情報は「艦隊を武装する」と云うポルトガル議会の議決を生み出した。この武装は起こりうる全ての可能性に打ち勝てるだけのもっと大規模なものであった。その議決に応じて20艘の大型船が選ばれ重武装され、そして指揮は再び、ヴァスコ ガマ (Vasco da Gama)に任された。

 

Vacco Da Gama

http://jr1dhd-kei.blog.ocn.ne.jp/photos/awarddx/vasco_da_gama.html

 

「起こり得るどの様な情況にも対応し、カリカットでのポルトガル人達に課せられた不正行為を是正し、喜望峰まわりの東西交易におけるポルトガルの独占権の拠点を明らかにし、アラビアとインドの間の伝統的交易航路を海上の武力によって崩壊させる為には ガマ(Da Gama)の冒険心と活力がもっとも相応しい」と判断された。

 

ガマ(Da Gama)はインドの領海に着くと、エジプトのスルタン所属の1艘の大型船(the Merium)に接近して、拿捕した。この大型船はジッダ(Jiddah)との交易に従事し、豊富な積み荷を乗せていた。積荷は略奪され、この船に乗っていたメッカ(Mecca)への巡礼達はもっとも不名譽な運命に遭遇する事になった。

 

ギャスパー コリア(Gaspar Correa)1512年に16歳でポルトガルを離れ、インドへ行った。コリア(Correa)3年間、ポルトガルの第2代インド総督アルフォンソ ダルボケルク(Alfonso d'Alboquerque)の秘書としてインドで働いた。コリア(Correa)53年間のポルトガルによる征服を網羅した「インドでの冒険事業(the enterprises of India)(Lendas da India)」を著述し、1583年頃にゴア(Goa)で死亡した。その一部をハクリート協会(Hakluyt Society)のスタンリー(Henry.E.J. Stanley)が註釈と緒言を付けてポルトガル語から翻訳し、「ヴァスコ ガマの三回の航海と副王(The three Voyages of Vasco da Gama and his Viceroyalty)」としてロンドン(London)1896年に出版した。

 

Alfonso de Albuquerque

http://it.wikipedia.org/wiki/Alfonso_de_Albuquerque

 

その「ヴァスコ ガマの三回の航海と副王(The three Voyages of Vasco da Gama and his Viceroyalty)」には、

 

「キャラベル船(caravel)がエジプトのスルタン所属の1艘の大型船(the Merium)を拿捕・連行し、ダ ガマ提督(the captain-major)の旗艦の近くに投錨させた。ダ ガマ提督はこの船がカレコト(Calecut)から出航して来たのを知ると部下に略奪する様に命じた。乗組員はボートで出掛け略奪を行い、終日掛かってその船が空に成るまで積み荷を自船に運んだ。ダ ガマ提督(the captain-major)はその船からムーア人(Moor)誰一人として連れ出すのを禁止し、それから乗組員にその船に火をかけるように命じた。

 

これを見た時にはその船の船長は自分を提督の前に連れ出すのが得策なのでそうする様に大声で叫んだ。乗組員がこれをダ ガマ提督に報告するとダ ガマ提督は船長に来る様に命じた。船長はダ ガマ提督の面前で『閣下、貴方は我々を殺すように命じても何も得る物はない。我々に手枷、足枷をする様に命じ、我々をカレコト(Calecut)まで運んで貰いたい。もし、そこで胡椒や薬が貴方の船に無償で積み込まれなかったら我々を焼く様に命じれば良い。我々を殺す様な些細な事で貴方は巨額の富を失うのだと言う事に注目すべきだ。戦争では降伏した者達は容赦すべきであるし我々は戦わなかったので騎士道の徳を実行すべきだ』と言った。

 

ガマ提督(the captain-major)は船長に『お前はカレコト(Calecut)の王に仲買人(the factor)とポルトガル人を殺して略奪する様に助言したのだから生きたままで焼かれるべきだ。そして、カレコト(Calecut)ではお前はこれらの船の為の積み荷を無償で私にくれる力があろうと無かろうと、お前に100回の死を与えるのを私に思いとどまらせる程、魅力のある物はこの世界には無い』と言った。

 

ガマ提督はそれから乗組員達にこのムーア人の船長をその船に戻し船に火をかける様に命じた。ダ ガマ提督に率いられていた部下の船長達は『ムーア人達を殺せば、報復でカレコト(Calecut)には入港出来なくなるのでムーア人が提示した巨額の富を失う選択をすべきでは無い』と言いながら、ダ ガマ提督がそうするのを邪魔しようとした。船長達の主張はヴァスコ ガマ提督(Vasco da Gama)に否定された。ダ ガマ提督(Da Gama)はそれ以降、この公然の海賊行為およびこのいわれの無い残酷さ全てに責任を取らなければならなかった。

 

ガマ提督(Da Gama)はそれから乗組員にその船に火をかける様に命じた。そして、略奪を求めてその船の回りを彷徨いていたポルトガル人達がその船から出て行くにつれてムーア人達はポルトガル人達がまだ取り払って居なかった武器を取り、戦いを挑み、数人を殺し、他を傷つけた。その間、武器の無いムーア人達は海に飛び込むしかなかった。ムーア人達は陸に向かったり、他の船に向かったりする為に自分達の船の錨鎖を切った。武装した男達を乗せたボートがぎっしりと群がった中で700名以上居たムーア人達は勇敢な戦士として頑強に抵抗した。彼等は火で苦しめられるよりは剣で殺されるのに躊躇しなかった。

 

ムーア人達の船を見ていたフランシスコ マレコス船長(Francisco Marecos)はその船の近くに来てロープを渡す様に命じ、その船を自分の船に近づけた。これにムーア人達は喜び、大胆にも彼の船に乗り移った。もし、ムーア人達を皆殺しにしようとする多くの男達がボートにひしめいて居なければ、彼等は疑いもなくその船を乗っ取ろうと勇敢に戦っただろう。ダ ガマ提督は自分の小さなボートで来て全ての男達に船から出てくる様に指示し、そしてボートに持参したファルコンネット(falcon-net)と回転砲架(swivel gun)でその船を沈める様に命じた。その様に事は行われ、ムーア人達は泳ぎながら残された。ボートからは槍を繰り出し、ムーア人達を刺し殺して行った。『泳いでいたムーア人が水に浮いている槍を出来る限り見つけその槍をボートに力一杯投げ込みそれが船員を突き刺して殺す』と云う事もここでは起きた。これは自分には大きな事に思えたのでそれを書き留めた」

 

と記述されている。

 

ここに引用したギャスパー コリア(Gaspar Correa)の記述は他のポルトガル人歴史家達の記述とは異なるが、コリアは「この船はジッダへ向かうのでは無く、ジッダからやって来る途中であった。そしてこの船はエジプトのスルタンの所有では無く、カリカットの最も裕福なモスレム商人の所有であった」と言うがコリアの記述はコリア自身が1512年にインド到着した以前の出来事の詳細に付いてそれほど信頼は出来ない。それにもかかわらず、1502101日に起きた思いがけない不幸な出来事でのヴァスコ ガマ提督(Vasco da Gama)の残虐な行為には正しくバランスのとれた見方をしている。

 

16世紀のポルトガル歴史学者であったジョアン バロス(João de Barros)(1496 1570)1522年から1525年までは船長で、1525年から1528年まではインド局(the Indian Department)の財務官を勤めた後、インド家屋の仲買人をして居り、そして最後はリスボン(Lisbon)の文書館の管理人となった。 バロスはマヌエル一世(Manuel I)にポルトガルのアジアでの発見、征服を年代記にまとめる仕事を信頼され、任されていた。マヌエル一世(Manuel I)(1469-1521)1495年から1521年までポルトガル王であり、その治世下でのインド航路やブラジル発見によりポルトガルは海運国として繁栄し、マヌエル一世は通称を「金持ち王(Fortunate')」と呼ばれた。バロスは1553年から1615年のリスボン マドリードを中心とした40年間における東洋の海岸と陸地のポルトガルによる発見と征服に関する出来事を年代記としたその著書「ジョアン バロスのアジア(Asia de João de Barros) (Dos feitos que os Portugueses fezerão no descobrimento e conquista dos mares e terras do Oriente, en 4 Decadas Lisboa-Madrod 1553 - 1615)」に纏めた。バロスの歴史的な仕事の価値はインドの初期の航海家、探検家および官僚の航海日誌、書簡、議事録および報告書等を無制限に読むことが出来る王立文書館管理人の地位に依る所が多かった。

 

ジョアン バロス(João de Barros)はヴァスコ ガマ提督(Vasco da Gama)のエジプトのスルタン所属の1艘の大型船(the Merium)等に対する殺戮を

 

「最後にその船とその乗船者に火を付ける前に、ダ ガマ提督(Da Gama)20名余りの子供と水先案内人のせむしのムーア人の命を助ける様に命じた。この子供達にダ ガマ提督はキリスト教に改宗する様に命じた。この事件の直後に、ダ ガマ提督はカナノア(Cananore)へ行った。そこで、ダ ガマ提督は港の近くに商館を建設する許可の受領確認の下に通商友好条約を結んだ。ダ ガマはそれからカリカット(Calicut)へ向かい、ザモリン(Zamorin)にカブラル (Cabral)の商館への攻撃の際に被ったポルトガルの生命・財産の損失の賠償と修復を要求する書簡を送った。

 

ここでも、ダ ガマ提督(Da Gama)は再び残忍な厳しい仕打ちを持ってふるまった。この仕打ちがそれさえなければ歴史年代記の誉れであったダ ガマ提督の名を永遠に汚した。 ガマ提は港に停泊している幾艘かの非武装船に接舷し、現地人50人余りを捕虜にした。その上でザモリン(Zamorin)に対し、『期限以内に色好い返事をよこさなければ、捕虜の殺害を手始めに戦いを仕掛ける』と告げた。

 

何の返事も無かったのでダ ガマ提督はこの不幸な捕虜達を縛り首にする様に命じ、その後、その部下達は非道にも死体を切り刻み、陸へ切断した耳、足や手を身の毛のよだつ警告として送った。それから自分の艦隊の砲列でカリカット (Calicut)へ、王宮を含む多くの家が延焼するまで激しい攻撃を加えた。これで満足したポルトガル人達(Lusitanians)はコーチン(Cochin)に移動した。そこではトリモンパール王(King Trimumpar)が最大の儀礼でダ ガマ一行を迎え入れ、もう一つの通商条約にも調印した」

 

ともっと詳細に記述をしている。

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1.3 カリカット艦隊との海戦(15032月)

 

再び、カナノア(Cananore)へ向かう途中で、ダ ガマは自分の艦隊を2つに分けた。ヴィンセント ソドレ(Vincent Sodré)の指揮下に3艘の船と5艘のキャラベル船(caravel)で編成されたグループは岸沿いに航行し、出会う全ての船を沈没させる様に命令された。もう一つのグループは満載の船と小さな船、合計10艘で構成され、ダ ガマ自身の指揮でもっと沖合を航行した。1503212日の朝、この編成でダ ガマ一行が航行している時に、戦争を決意したザモリン(Zamorin)がダ ガマ一行を要撃する為に派遣したカリカット(Calicut)の艦隊を目撃した。この艦隊は偉大な名声を持つアラビア人船乗りコジャムバール(Khojambar)指揮下の29隻のダウ船(dhow)で代表される紅海部隊およびホジャ カッセム(Khoja Kassem)指揮下の数十艘のサンブーク(sambuk)から成るマラバール小艦隊(Malabar flotilla)で編成されていた。

 

ポルトガル人達が長距離射程の大砲で武装している事を除けば、純粋に数の上では全てが東洋の艦隊に有利に思えた。自分達の射程で戦える様にその距離を保つのがポルトガル人達にとって勝利を確実にする為に唯一必要な事であった。順風と戦略的に有利な最初の配列に恵まれ、ポルトガル人達(the Lusitanians)はまさにその様にうまく出来、そして、その圧倒的な大砲で殆ど自分達は無償の儘、敵艦隊の大部分を除き或いは使用不能にした。略奪(depredation)、放火(arson)および冷血な殺戮がいつものとおりにそれに続いた。これらの船の1艘の中にポルトガル人達は40ポンドの重さのある黄金の像を見つけた。恐らくヒンドゥー教の偶像(Hindu idol)であり、2つの貴重なエメラルドの目をしていた。「提督は女王の為にそれと数人の可愛い少女達を捕獲した」。

 

ヴィンセント ソドレ (Vincent Sodré) はカリカット(Calicut)にもう一度懲罰的襲撃を行う為に、後に残った。この襲撃はダ ガマ(Da Gama)がカナノアへ向かっての航海中に行われた。カナノア(Cananore)ではポルトガル人達はギル フェルナンデス(Gil Fernandes)を商館長とした商館用地所有の公式な許可を得ていた。ギャスパー コリア(Gaspar Correa)

 

「商館長ギル フェルナンデス(Gil Fernandes)にはドゥアルテ バルノナ(Duarte Barnona)と云う名のやがて歴史家となった甥が居た。バルノナはフェルナンデスと共に留まり、マラバル(Malabar)の言葉をこの国の人間以上に話せる程、良く学んでいた。

 

多くの各種サイズの砲が船から取り外され、陸の商館に弾薬と火薬と共に送られ、そして壁と矢来(palisade)がインドにおける未熟なポルトガル人定住地の周囲に築かれた。ダ ガマ提督はヴィンセント ソドレ (Vincent Sodré)を提督とした全体で200名の乗組員になる6艘の船をインドの領海に残した。ダ ガマ提督(Da Gama)はソドレ提督(Sodré)に夏の間中は海岸に沿って航行し、カリカット(Calicut)の行事に全ての種類の危害を加え、常に、コーチン(Cochym or Cochin)を訪問する様に命じた。又、必要以上の船を確保せず、カナノア(Cananore)かコーチン(Cochym or Cochin)にその他の船は係留して置く様にとも命じた。

 

ポルトガル人達はカリカット(Calicut)のヒンドゥー教の王(Zamorin)とコーチンの王(the King of Cochin)の間に紛争が起きると予想しており、もし、戦争が起きたらソドレ提督はカナノアかコーチンで冬を越さなければならなかった。その場合には、ソドレ提督はコーチンの王の命令に従う様にポルトガル王の指示を受けていた。そして、もし、戦争が無く、コーチン(Cochym or Cochin)で冬を過ごす必要がなければ、ソドレ提督は海岸に沿って更に進み、メッカ(Mekkah)に向かう船の中から獲物を求めて巡航する様に命令されていた」

 

と「ヴァスコ ガマの三回の航海と副王」の中で述べている。

 

ヴィンセント ソドレ (Vincent Sodré)は同じ1503年の夏にアラビア海オマーン南西岸沖のクリア ムリア諸島(the Kuria Muria islands)で難破して水死したので、実際には提督の指示を全て実行するだけの時間は無かった。

 

ヴァスコ ガマ提督(Vasco da Gama)1503121日にリスボンに帰港した。合法的な交易を通じて得た商品よりもアラブ船から押収した略奪品で豊かであった。ダ ガマの積み荷は24,000ダカット金貨(gold ducat)相当の価値があった。この積み荷には500トンの胡椒を含む3,500トンの香料および金が含まれていた。金は東アフリカ海岸のキルワ(Kilwa)のスルタン(the Sultan)から貢ぎ物として取り立てられた。これから有名なベレン聖体顕示台(Belen monstrance)が後に作られた。

 

www.mpingoconservation.org/kilwa_district.html   http://abagond.wordpress.com/2007/10/24/kilwa/

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1.4 チョウルの戦い(15081月)

 

ポルトガル人達(Lusitanians)の最初の目的がインドとの交易であるのならポルトガル人達の方法はアラビア人達のそれとはちぐはぐであった。アラビア人達はこの国を征服するのを試みたりせず、その住人への干渉あるいは競争を邪魔する海賊行為等を行わずに全く同じ事を数百年続けて来ていた。エジプトのマムルーク朝(Mamuluk) (1250 - 1517)のスルタン(Sultan) カンサウ ガウリ (Qansawh al-Ghawri)(1501-1516)はもっともなことだが、侮辱され、そして紅海の船への攻撃、料金や交通の損出およびメッカへの巡礼がさらされる無礼に怒った。大型船(the Merium)の破壊は大きな衝撃であり、スルタンはポルトガルへの復讐を誓った。

 

ユダヤ教の先例により、スルタンはローマ教王(the Pope)に「もし、教王がポルトガル人達のインド洋(the Indian Sea)での略奪行為(depredation)を取り締まらないのであれば、すべてのキリスト教の聖地を破壊し、キリスト教徒をポルトガル人達がモスレムを扱うのと同様にする」と警告した。この脅しは聞き入れられなかったが、スルタンはそれを実行はしなかった。その代わりにポルトガル人達の機動作戦の最大の悪影響を受け、苦悩しているインド、南アラビアおよび東アフリカのイスラム支配者からの援軍の要請には応え、スルタンは海軍遠征部隊を組織する決定を行い、自分の側近で悪名高い程、残酷なフサイン クルディ(Husayn al-Kurdi)を指揮官に命じた。

 

この任命の理由については「フサインは生粋のクルド族(Kurd)であるのに対し、スルタン自身はかつての北西カフカス語族に属するチェルケス人(Circassian)の奴隷であり、嫉妬深いチェルケス人の国々からの圧力により、スルタン自身がフサイン クルディをカイロから遠ざける為に海軍遠征部隊指揮官への任命を決定した」と指摘する歴史資料もある。

 

この配属がフサイン クルディにとって心地よい処遇とする為に、「集積する商品や巡礼によって豊かな交易とその将来性があるジッダ(Jiddah)を母港とする新しく創立された艦隊への命令はフサイン クルディよってのみ行わる」と定められた。ヴェネツア人(Venetian)の助力を得て、スエズで急いで作られた艦隊はアラビア人と約1,500名のキリスト教徒と奴隷船員が乗船した50艘余の帆船で構成されていた。

 

これらは次第に古代の港トール(Tor) に集中して来て、それから1507年初めに戦闘の為に南にむかった。フサイン クルディは途中、イエンボ(Yenbo)を略奪した。フサイン クルディはジッダ(Jiddah)に上陸し、暫く滞在してポルトガルとの戦争に備えた艦隊基地としてその準備の為の必要な対策を行い、最後に海峡を抜け、アラビア海を横断して、インドへ移動した。

 

その間にポルトガル人達は多くの連続した探検やインド掌握の為の相当な引き締めを含む重要な進捗を達成していた。フランシスコ ダルメイダ(Francisco d'Almeida)が最初のインド総督(the Viceroy of India) (1505-1509)として任命され、1505年以来、アルメイダはコーチン(Cochin)やカナノア(Cananore)の商館を城塞に作り替え、現在のケララ(Kerala)州コラム(Kollam)であるクイロン(Quilon)にも要塞を後から作った。「インドの年代記」で非常に有名になる様に運命付けられていたポルトガルの第2代インド総督アフォンソ ダルボケルケ(Afonso d'Alboquerque)は既に東洋の海で活躍していた。これがフサイン クルディ(Husayn al-Kurdi)1507年末にインド海域に到着した時に、直面した情況であった。

 

15081月にポルトガル初代インド総督フランシスコ ダルメイダ(Francisco d'Almeida)は自分の息子ロレンソ(Lourenço)をカナノア(Cananore)から3艘の船と5隻の軽キャラベル船(light caravel)から成る小艦隊でチョウル(Chaul)港に派遣した。総督アルメイダ(the Viceroy)はそこの地方統治者と通商条約を結びたいと考えていた。チョウルはボンベイ(Bombay)から南約45kmの曖昧な川の岸辺にあり、カーティアーワール半島(Kathiawar)端のディウ(Diu)からはたった1日の航海で行ける。そこにはエジプトのマムルーク艦隊(the Mamluk fleet)がマラバル海岸(Malabar)のポルトガル人定住地(Lusitanian settlement)を急襲しようと計画していたグジャラート人(Gujarati)を糾合する為に臨時に配置されていた。

 

ポルトガルの小艦隊がチョウル(Chaul)に着いたとのニュースがフサイン クルディ(Husayn al-Kurdi)とディウ(Diu)の支配者であり、グジャラートのスルタン(the Sultan of Gujarat)の家臣アッヤズ王(Malik Ayyaz)に届くと、2者は直ちに攻撃しようと決めた。2者はチョウル川(the Chaul river)に居るロレンソ ダルメイダ (Lourenço D'Almedida)を捕まえようと全速力で帆走し、そしてチョウル(Chaul)に上陸していた何人かの将校が3日間続いた血塗れの戦闘の始まりにやっと間に合う程にポルトガル人達を驚かすのに成功した。

 

アラビア軍が数で遙かに勝っている上に外海に逃れる可能性は無く、初戦からポルトガル小艦隊はどうしようもない状態であったが、雄々しく避けられない状態を受け入れ、最後の1人まで頑強に戦った。フサイン クルディ(Husayn al-Kurdi)は使用可能な船を拿捕しようと最初から自分達の銃を使うのを抑制し、乗船して攻撃と云う海戦方式を選んだ。ポルトガル小艦隊は凶暴さを持って反撃し、恐ろしい殺戮が両陣営で行われた。この戦いは2日目も3日目も続き、若い指揮官アルメイダ(Almeida)の死によって終わった。グジャラートの小舟(Gujarati boat)の群が疲れたエジプト人達に代わって戦闘の主力(brunt)と成った時にアルメイダは矢に貫かれた。そして、自分の部下に最後まで戦闘を指示できる様に砲弾で傷ついた足のままで自分の船のマストに自分の腕の下を通したロープでくくりつける様に頼んだ。戦いも終わりに近づき、エジプト(マムルーク朝)とグジャラート(Mamuluk-Gujarati)の連合艦隊が最後の殺害に移動している時にポルトガル小艦隊の内の2艘が戦列を何とか抜け出し、この災難のニュースを持って、一週間後にカナノア(Cananore)に到着した。

 

http://www.raremaps.com/gallery/detail/16457

アラビア海とインド洋北部の地図

フューゴ ヴァン リンスホーテン(Hugo Van Linschoten)著、ハーグ(Hague)1599年出版。ラテン語とドイツ語の記述では「この地図の中ではアベクス(紅海西岸) (Abex)、メッカ(Mecca)の出入り口、紅海、アラビア海、ホルムズ(Hormuz)、ペルシア(Persia)の海岸の輪郭、上からインダス川(the Indus River)、カンベイ インド(Cambay India)とマラバール(Malabar)、セイロン島(the Island of Ceylon)、コロマンデル(ベンガル湾南東岸) (Coromandel) とインド東部ベンガル(Bengal)湾を臨むオリッサ(Orissa)、ガンジス川(the River Gamges)およびベンガル王国(the Kingdom of Bengal)を含む地域、更に湾、島々、暗礁、岬(headlands)、浅瀬(shoal)等の位置および上記海岸近傍の水深、各地の典拠のある名前を最も経験のあるポルトガル人水先案内人の必要に基づき示している。これら全ては非常に良く出来たインドの海図を細心の注意で修正、訂正して作られている」と述べている。

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1.5 ディウ沖の交戦(15092月)

 

この様な敗北はポルトガル人達にとってもの凄い復讐心を持たせる事であったが、総督アルメイダ(the Viceroy)はこの時、たった4艘の船しか持って居らず、ポルトガルから来港する年次艦隊を待なければ成らなかった。

 

http://www.dancingwithdolphins.com.au/discovery/index.html

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「マムルーク朝艦隊はチョウルの戦い(the battle of Chaul)の後、ディウ(Diu)に再び退却した」との情報に基づき、総督アルメイダ(Almeida)は個人的命令でこの港の中でこの艦隊を攻撃しようと決めた。仕返しの襲撃を行う為に19艘の船が1509年初めにカナノア(Cananore)から出航した。敵対する支配者が統治していたダイブル(Daibul)の港に暫時停泊して略奪した後、総督アルメイダ(Almeida)150923日にディウ(Diu)沖で敵と交戦し、凶暴な海戦で敵艦隊に血みどろの敗戦を被らせた。

 

(注)ダイブル(Daibul)と云う地名はパキスタン南部インダス川(the Indus)下流のシンド(Sind)州の主要な海港と同名であるが、この戦いに出てくるダイブル(Daibul)はチョウルとゴアの間にある港でダブル(Dabul)と記述している文献も多い。

 

一握りのフサイン クルディ(Husayn)の船を残して、敵艦隊は沈没するか、拿捕され、乗組員は殺戮されるか、後に面白みを付けて死刑にする為に捕虜にされた。最大の4艘は保存され、ポルトガル人達によって戦利品として保存された。総督アルメイダ(Almeida)のその様な無慈悲な振る舞いは通常は同情的なポルトガルの歴史家の非難を浴びた。

 

例えばポルトガルの歴史家オソリオ(Osorio)

 

「たまたま戦争で総督アルメイダ(Almeida)の奴隷と成ったとしても、総督アルメイダ(Almeida)の庇護をうけるべきである」

 

と言う。

 

ポルトガルの歴史家で、1566年に出版された「金持ち王マニュエルの年代記(Crónica do Felicíssimo Rei D. Manuel)」の著者ダミアン ゴイス(Damião de Goís)のアルメイダ(Almeida)批判はもっと厳しかった。ゴイスは

 

「戦闘の後、アルメイダ(Almeida).... カナノア(Cananore)に向けて、そこは離れ、そして要塞が見えて来た時に捕虜にした異教徒数人を絞首刑にする様に命じた。その他の数人にはそれとは異なるもっと残酷な方法をとった。アルメイダ(Almeida)は彼等を大きな大砲の筒の前に縛り付けて、砲弾を発射し、この哀れな人々の体の破片を市内に播き散らして祝砲とした。この様な身の毛のよだつ事件ではこの様な残酷さに対する懲罰(chastisement)として世界中で最も野蛮人として知られる人々の手でアルメイダ(Almeida)を殺させようと神はされるだろうと思われる」

 

と言っている。

 

フサイン クルディ(Husayn al-Kurdi)は戦闘で負傷したが、陸までは辿り着いた。カンベイ(Cambay)湾のグジャラート人(Gujarati)からの援助を得て、フサイン クルディは生き残った僅かな乗組員と船を集めて、ジッダ(Jiddah)へ戻った。

 

ディウの戦い(the battle of Diu)の前から、多くの権力が1人の手に長く集中するのを恐れていたポルトガル国王マヌエル一世(King Manuel I)(1469-1521)はインド総督アルメイダ(Almeida)にインド統治領(the Viceroyalty of India)の最高権威の事務所を第2代インド総督に任命したアフォンソ ダルボケルケ (Afonso d'Alboquerque)に渡し、帰国する様に命令して解任した。そこでは2人の間にポルトガルが東洋で覇権を確立する為の方法について際だった意見の違いがあった。それはアボケルケが地域拡大に強い支援者であるのに対して、アルメイダは明白な制海権に集中しており、幾つかの交易港確保を望んだだけであった。

 

アルメイダが自分の競争相手をその政策は国益に反すると主張して逮捕する程、その不一致は劇的な性格を持っていたと思われる。しかしながら、150911月に、ポルトガルから派遣された艦隊は断固たる裁判所命令を携えてきた。それは「アルメイダに直ちにアルボケルケ(Alboquerque)を第2代インド総督(Governor General)に任命し、リスボン(Lisbon)に帰任せよ」との内容であった。アルメイダはそれに従い、ポルトガル帰国の途についたが、ダミアン ゴイス(Damião de Gofs)150923日にディウ(Diu)沖での凶暴な海戦での無慈悲なフランシスコ ダルメイダ(Francisco d'Almeida)の行為に対してほのめかした死が事実となった。151051日、喜望峰(the Cape of Good Hope)近くのアフリカの海岸に上陸し、泉(water hole)で休息中であったアルメイダ(Almeida)の部下達はキャフレ族(Caffres)の暴徒達から小さな攻撃をこうむった。それに復讐をしようとしてアルメイダ(Almeida)は返り討ちにあい、65名の部下達と共にキャフレ族(Caffres)に殺された。こうしてアルメイダ(Almeida)は喜望峰(the Cape of Good Hope)から先に帰る事は出来なかった。

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1.6 インド洋全体へのポルトガル覇権確立

 

2代インド総督アルボケルケは行動の自由を得ると直ぐに、その大胆不敵で包括的天稟はインド洋全体に無敵のポルトガルの覇権を確立すると思われた。総督アルボルケは防御し易い堅固な足場を陸上に築こうとして、その目をマラバル海岸(Malabar Coarst)のゴア(Goa)に向けた。そこはムガル帝国皇帝(Great Mogul)に反抗し、1479年に独立を勝ち取った豊かなムスリム(Moslem)王国の領土であった。

 

ゴアはアラビア馬をインドへ輸入する陸揚げ地であり、コモリン岬(Cape Comorin)までのアラビア海に臨むマラバル海岸(Malabar Coarst) の造船中心地の1つであった。その上、島に位置していたので、総督アルボルケの計画には好都合であった。総督アルボルケは1510年に最初の攻撃に成功したが、直ぐに引き上げた。しかしながら、総督アルボルケは同じ年遅くに軍を引き返し、激しい戦いの後、永久に占拠し、直ちにこの市をポルトガルの拠点に変換した。

 

http://flickr.com/photos/8513343@N03/2393533668/

その前に総督アルボルケはアラビア海岸の沖に要塞を既に築いていた。1508年に航海者で探検家のトリスタン クーニャ(Tristão da Cunha) (1460s - 1540) と共にイエメンのアデン湾の東にあるソコトラ島(Socotra)を占領し、そこに砦を築いた。ソコトラ島は紅海への略奪およびジッダ(Jiddah)への香料運搬の遮断を目的とした基地であったが、その入出港の危険、岩だらけの土地および水不足でポルトガルは最初の数年で放棄せざるを得なかった。

 

1510年に総督アルボルケはホルムズ(Hormuz)を占拠した。ホルムズはオマーン湾(the Gulf of Oman)とペルシア湾(the Persian Gulf)の間の航行の隘路にある島市場であり、相当な海軍力を持っていた。ホルムズはペルシア湾におけるジッダであり、その港では大きなインド船から小さなブーム(samller boom)にバスラ(Basrah)向けの貨物が移されていた。ジッダの様にヨーロッパではその名が東洋の富みと輝きの同意語と成るまでに香料交易で非常に繁栄していた。

 

ホルムズ(Hormuz)、ゴア(Goa)、カナノア(Cananore)、カリカット(Calicut)、コーチン(Cochin)およびクイロン(Quilon)等の拠点を持って、ポルトガルはアラビア海の交易航路を支配し、意のままに略奪出来た。総督アルボルケにはベンガル湾(the Bay of Bengal)を横断するモスリム貿易を止める為に、さらに東に基地を占拠する事が残されていた。マレー(Malay)群島(インドネシア群島)への鍵であり、極東への出入りする全ての往来が通過するこの海峡を支配する偉大な交易市であるマラッカ(Malacca)に総督アルボルケ(Alboquerque)はその行動を向けた。151152日にゴア(Goa)から強力な部隊と共に出航し、総督アルボルケはマラッカに二回目の攻撃を行い、ここに要塞を築く前にその軍隊によってこの市への組織的な略奪を行った。

 

1513年に最初に中国の港に着いたポルトガル船が広東(Canton)に入港した。同じ年に、最初のポルトガル船がモルッカ(Molucca)およびバンダ諸島(Banda Islands)に着いた。そこは一番価値のある2つの香辛料である丁字(clove)と肉豆蔲(にくずく)(nutmeg)の産地である。モルッカ(Molucca)諸島では最大のハルマヘラ(Halmahera)島の西にある小島テルナテ(Ternate)にスルタンから丁字(clove)を集荷する為の要塞化した倉庫を建設する特権を勝ち取った。

 

アデン湾(the Gulf of Aden)と紅海に関しては、ソコトラ(Socotra)島が目的には適さない事実が総督アルボルケに直ぐに他の地に要塞を作る様にと促した。総督アルボルケがマニュエル国王(the King Manuel)宛てに出した手紙から十分に詳細が練られた計画である事が分かる。ダンヴァーズ(Danvers, F.C.)著の「インドのポルトガル人(The Portuguese in Indea)」に掲載された総督アルボルケの書簡の1つには次の様に

 

「アデンは攻め落とし、要塞を持って確保しなければなりません。そこには冬の間、我々の船に十分な広さの避難場所を与えてくれる良港があります。アデンからの最後のニュースは『城壁は高められ、強化され、そして十分な量の火砲がインドのディウ(Diu)の頭領であるアヤッズ王(Meliqu Az or Malik Ayyaz)から送られて来ている』との事です。アヤッズ王は私が『その事を何も知らない』と思っていました。そこには水が無いのでこの海峡の関門に要塞等を置くのは全く不可能ですが、アデンはこの関門からたった3日間の航海の範囲なので、私はアデンがこの海峡の鍵であると考えました。陛下はソマリア北部のアデン湾(Aden)に臨むベルベラ(Berbera)やアフリカ東海岸の水や食糧の供給地ゼイラ(Zeila)とは彼等に朝貢を強要し、その民を服従させる以外にはいかなる経済的条約も結ぶべきではありません。紅海南東岸に近いカマラン(Kamaran)島に関しては、私は『ルメス(Rumes)或いはアデンのシェイク(the Sheikh of Aden)がそこに砦を築いた』と聞いています。この砦はジェッダ(Jeddah)の近くにあるもう一つの砦ほど多くの重要性は持っていませんでした。その砦はファラサン (Farasan)と呼ばれ、ジザン(Ghisan or Jizan)港の沖合にあり、給水の良さに加え、我々の船にとって安全な錨地がありました。私達はダフラク諸島(Dalaca or Dahlac)も確保しており、ここにも良い水場があります。私達の第1段階は食糧と装備を保証する為に私達自身を紅海の入江に臨む海港マッサワ(Massouah or Massawa)で安全確保する事でした。それはマッサワがプレスター ジョン(the Prester John)の領地の主要貿易港であったからです。これらの事柄が完成した時がジェッダ(Jedda)、メッカ(Mecca)およびスエズ(Suez) について考える時です。そして、プレスター ジョン(the Prester John)の領地には良馬が多いので、500騎のポルトガル騎兵を幾艘かのタフォレア船(taforeas)とキャラベル船(caravels)に乗せて、ジャッダ(Jedda)に上陸し、そこから1日行程のメッカ(Mecca)に進軍し、この町を灰にしてしまうのは簡単な事です」

 

と述べられている。

 

数日後に総督アルボルケはこの様に自分の意図をもう一つの手紙に

 

「プレスター ジョン(the Prester John)の港であるマッサワ(Massouah or Massawa)へ行き、ダフラク諸島(Dalaca or Dahlac)を占領し、そして私がジェッダで何が出来るかを見るのが、たとえ、交易の利益の為に他の事でホルムズ(Ormuz or Hormuz)に呼ばれたとしても私の意図です。しかしながら紅海への航海は毎年インドから来る価値のある香料のお陰で利益がありました。私はルメス(Rumes)人達を皆殺しにして、プレスター ジョン(the Prester John)と関係を開いたらメッカを破壊したいと思います。これらの理由で、私は先ず、紅海に行き、その海域でのスルタン(the Soldan)の影響力を破壊したい....

 

 

と表明している。

 

総督アルボルケ(Alboquelque)15133月にアデン(Aden)を襲ったが、この市は総督アルボルケが予想していた以上に堅固に防御されており、この攻撃は撃退された。この失敗で憤慨した総督アルボルケは途中で出会うアラビア船を燃やし、無防備の捕虜を八つ裂きにする等の残虐行為を行いながら紅海に入った。しかしながら、この危険な水域の知識に欠けて居り、ジッダ(Jiddah)には到達出来ず、カマラン島(Kamaran Island)へ入港するのがやっとであった。そこでは病気、戦闘、悲惨な気候および栄養不良等で多くの乗組員を失った。

 

その時、総督アルボルケはアデン(Aden)の西方の紅海入り口にあるペリム島(the island of Perim)を探索したが、その理想的な位置にもかかわらず、水は全く無く、要塞としては不十分である事が分かった。アデンの戻った総督アルボルケはこの町が以前にも増して強固に防護されているのを見て、二回目の攻撃は行わず、最終的にインドへと横断した。

 

この時点でポルトガルの東洋への発展が総督アルボルケを一般史の重要人物に高め、ちっぽけなポルトガルに富と名声をもたらし、叙事詩「ウスルジーアダス(the Lusiads)」の作家で詩人のカモンイス(Camões) (1524/1525 - 1580)の天分を刺激した。この発展の広範囲なあらましを追うのは不可能なので、ここでは紅海、特にジッダ(Jiddah)に関連した出来事に限って記述したい。

 

ポルトガル人達がカナノア(Cananore)に要塞を築いて以来、ポルトガルは自分達が発行する航海許可証(passport)無しではどんな船もインド海域(Indian seas)での航行を許さないと云う政策を強化した。但し、ポルトガル人達は自分自身の法律を尊重するとは限らなかった。1507年にはアラビア人はカナノア(Cananore)の要塞司令官ロレンソ ブリト(Lourenço Brito)から正規に得た安全通行証を見せたにもかかわらず、ゴンサルヴォ ヴァズ ゴエス(Gonsalvo Vaz Goes)1艘のアラビア船を略奪し、沈め、その乗組員を帆に縫い合わせた。捕らえられた船が正規の書類を持たないと分かると、もっと恐ろしい目に会い、その積み荷は躊躇することなく、戦利品として奪われた。

 

ホルムズ(Hormuz)を征服した後、総督アルボルケはサファヴィー朝ペルシア(Safavids Persian)(1501/1502-1722)のシャー イスマイル(Shah Ismail)(1502-1524)の大使に対して、「もし、ペルシャからの商人がゴア(Goa)港以外のインドの何処で見つかっても、その商品は没収され、ポルトガルによって、最大級の罰金を課せられる」との明確な規定を伝えた。この様な脅しにもかかわらず、香料貿易は利益が多く、アラビア船がポルトガルの海上封鎖突破を試みる程、魅力的であった。それはアフォンソ ダルボケルケ(Afonso d'Alboquerque)の息子によって、その著書「第2代インド総督、偉大なアフォンソ ダルボケルケの実録(The Commentaries of the Great Afonso d'Alboquerque, Second Viceroy of India)」の一部として

 

「ある時、アフォンソ ダルボケルケ(Afonso d'Alboquerque)は海峡からやって来た船の一艘に収容されていた人々の中の一人のムーア人(Moor)に『ポルトガルの2ヶ所の要塞カナノア(Cananore)とコーチン(Cochin) の間にあり、ポルトガルの艦隊が駐在しているまさにその場所を通る事を知っていながら、カリカット(Calicut)との交易の為に、こんなに遠くまで危険を冒してどうして来るのか』と尋ねた。ムーア人は『ここに来るまでの全ての危険に賭ける程、その利益は莫大である。カリカット(Calicut)で投資した各々のクルザード金貨(cruzado)を自分達はジュダ(Judá)および海峡内の全ての場所で12から13枚にするのが普通であった』と答えた。そのムーア人は『これはその利益が莫大である結果であり、胡椒交易はカリカット(Calicut)に定住するムーア人達がキャモリン(the Camorin)にその領地に要塞を建てる許可をポルトガル人達に与えない様に努力する程、大規模であった。もし、これがポルトガル人達に与えられると、商人達は海峡への交易航路無しに取り残されてしまう』と述べた」

 

と記録されている。

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1.7 マムルーク朝遠征艦隊によるジッダ要塞化

 

インドでの方面作戦(campaign)からジッダ(Jiddah)に戻るや否や、フサイン クルディ(Husayn al-Kurdi)は自分自身をこの市の総督の様に装い、直ぐに、この市の周囲に強固な城壁を作る決定を布告した。1050年に伝説的なイスマイル派信者で、詩人の哲学者ナシール- コスロウ(Nasir-I Khosrow)が目撃し、1183年にグラナダ(Granada)のムーア人総督の秘書であったイブン ジュバイル(Ibn Jubayr)も巡礼を兼ねた旅行の途中で目撃して居る様に、城塞化は以前にも存在していたが、フサイン クルディが帰還する前のわずか数年間の1503年か1504年にジッダ(Jiddah)に滞在していたボローニャ(Bolognese)出身の冒険家ロドヴィコ ヴァルテマ(Lodovico de Varthema)の報告によればこの城塞は既に廃墟と成っていた。

 

この城壁の機能は住民を襲撃(maraud)してくるベドイン(Bedouins)の侵入を防ぐ為であるが、実際にフサイン クルディ(Husayn al-Kurdi)は間違いなく、「強いジッダ(Jiddah)はメッカ(Mecca)と共に侵略しようとするポルトガル人のどの様な試みに対しても唯一の防護である」と認識していた。この直感はポルトガル人の歴史家達の明らかに誇張した記録によって確認されてはいるが、これらの歴史家達はフサイン クルディに対して偏見をもってその動機を求める傾向がある。フサイン クルディはこの仕事の為にすべての強壮な男子を雇用し、一度に仕事を始めた。フサイン クルディは瓦礫を建築材として使いながら、城壁への通路を空ける為にこの町の全ての区画を斟酌せずに早急に取り壊した。立ち退かされた家の持ち主達からの反対は無慈悲にも流血を持って押さえつけられ、恐れずに抵抗した多くの人々が城壁の中に生きた儘で閉じこめられた。ヴァスコ ガマ(Vasco da Gama)(1460 - 1524)の第2回遠征(1502)に加わり、1517年までインドに留まったデュアルト バールボサ(Duarte Barbosa)はその著書「ドゥアルテ バルボサの本(the Lovro de Duarte Barbosa)」に

 

「少し前にポルトガル人達がインドで打ち負かしたエジプト スルタン(Soldan)の船のムーア人船長ミロセム(Mirocem)(フサイン クルディ)が『要塞がジュダ(Juda)に構築されるべきである』と命じた。自分の敗北の後、このムーア人船長は自分の国王に何らかの功績無しに国に戻る勇気はなかったので、グジャラート(Gujarat)の王でもあったカンバヤ王 (the king of Cambaya)やその皇族とその商人達およびその他のムーア人の王達(the other Moorish king)に『ムーア人達がフラングエス(Frangues)と呼んでいるポルトガル人達(the Portuguese)は余りにも強いので、ポルトガル人達が港に侵入しマホマの家(the House of Mafoma)を破壊するのは疑いも無い』と指摘し、この要塞を建設する為の多額の資金提供を要求した。ムーア人の王達および人々はミロセムの要請に耳を傾け、ポルトガルの王の力を考えると、これは有り得る事だと思えた。この為、ミロセムに莫大な贈り物をし、それでミロセムは香辛料等を3艘の船に積み込み、紅海へ向けて出航した。ジュダ(Juda)に着くと、ミロセムはこれらの積み荷を売却し、その金で要塞を建設した。ミロセムが要塞を建設している間に、ポルトガル人達はカリカット(Calicut)の市の中にもう1つの要塞を建設していた。カリカットの王が提督アフォンソ ダルボケルケ(Afonso D'Alboqurque)に香辛料貨物をメカ(Meca)に送る許可を求めた。カリカットの王に許可が与えられと、王は船長として名声のあるカリファ(Califa)と云う名のムーア人に指揮させ、1艘の船を送った。カリファはジュダ(Juda)に着くと、整然と乗組員全員を上陸させた。要塞を建設中であったミロセム(Mirocem)はカリファにポルトガル人達に関するニュースを尋ねた。それに対し、カリファは『ポルトガル人達は平和裡にカリカットに移住し、そこに大きな砦を築いている』と答えた。

 

これに対して、ミロセムは『ポルトガル人達と友達でありながら、メカ(Meca)に来る大胆さをどうして持っているのか?』と尋ねた。カリファは『自分は商人で力も無いが、貴方は偉大なスルタン(the Great Soldão)の船長であり、インドからポルトガル人達を追い出す力を貴方の掌中に持っている。貴方はポルトガル人をあそこに居るままに放置し、どうしてここに砦を築いているのか?』と答えた。これらの言で、ミロセムは非常に激怒し、カリファはその時、そこで、立派な服装のまま、自分の乗組員全員と共に石や石灰を運ぶ等の作業を手伝わされた。ミロセムはカリファ達に1時間の間、この骨の折れる仕事をやらせた。カリファはカリカットに戻ってからポルトガル人の友達にこの一部始終を物語った」

 

とこの事件を掲載している。

 

デイムズ(M.L. Dames)によって翻訳された同じ逸話を記述したポルトガルの歴史家ジョアン バロス(João de Barros)16世紀初頭のジッダ(Jiddah)の興味深い概略を

 

「この市に出入りするにはたった1つの海峡しか無かった。この海峡はS字型をして居り、町はその北の部分にあり、海峡の入り口はその南の部分にあった。町の一部は見事な石造りの家と漆喰で造られた家もあるが、殆どは泥と粘土で造られており、少し以前にポルトガルを恐れて、町の周囲の城壁が造られ始めた。そして二番目の屈曲となる最初の場所にムーア人達は塁壁を建設していた。塁壁の上には前進してくる敵を防ぐ為に火砲が設けられていた。この市の住人の殆どは商品と共に行ったり来たりする商人であり、残りはこの地の土着のアラビア人であり、全ての住人は広々と開けた土地のベドイン(the Baduys or Bedouins)の脅威にさらされていた。町が要塞化される以前には、ベドインは時々、突然の様に町に闖入し、町を破壊し、略奪した。城壁(circumvallation)はミール ホセム(Mir Hoçem)(フサイン クルディ)によって造られた。ミール ホセムはエジプト スルダン(the Soldão)の船長でポルトガルの初代インド総督ドン フランシスコ ダルメヤダ(Dom Francisco Dalmeyada or Francisco d'Almeida)にグジャラート(Gujarat)州カーティアーワール半島(Kathiawar)南端の町ディオ(Dio)で打ち負かされた。そして、この敗北はこの市の要塞化ばかりでは無く、エジプト スルダンにポルトガルに対抗するもう1つの艦隊を編成させた。この艦隊がその時にそこにいた艦隊であり、歴史を良く理解する為の全体の話の関連が必要である。

 

ミール ホセム(Mir Hóçem)はフランシスコ ダルメイダの息子でポルトガル小艦隊司令官のドン ロレンソ(Dom Lourenço)を撃ち破り、ダイブル(Daibul)での戦闘等スルダンへの偉大な貢献を行い、インドやカイロのムーア人達から戦士の船長として称賛されていた。それにもかかわらず、ディオ(Dio)における敗北によってインドへ入った時に持っていた身分と権力がエジプト スルダン(Soldãn)によって剥奪されたのが分かったので、そのまま、スルダンの下に帰りたいとは思わなかった。

 

慎重な男で彼自身へのスルダンの愛顧を取り戻す手段については注意深かったので、ミール ホセムは自分の個人的な利益を隠し、高潔な熱意がある様にふるまうにはこれ以外の単純で簡単な方法は無いと抜け目無く考えた。

 

ディウ(Diu)の支配者であったアッヤズ王メリク アズ(Melique Az)やカンバヤ王(the king of Cambaya)およびその他の配下の司令官達との交渉の中で、ミール ホセムは『ポルトガルの艦隊がこれらの海域を支配しているのでポルトガルにとって紅海に入り、ジュッダ(Juddá)市を手に入れるのは余り難しくは無いだろう。ジュッダはメッカ(Mecha)へ非常に近い港であり、ポルトガルの信仰の故郷であるエルサレム(Jerusalem)を我々ムーア人達が抑えたと同じ方法で預言者の遺体を盗み、ポルトガルの所有の下に置く為に、ジュッダからメッカへ行き、そこからメディナ(Medina)へ行くことが出来る。メディナへの巡礼はスルダンの主要な歳入の1つであり、そして神は自分にポルトガルに敗北する事で懲罰(chastisement)を与えられるのだと感じ、自分自身の便宜と預言者マハメド(Mahamed)の便宜の為に自分はジュッダ(Juddá)市の周囲に城壁を築こうと決めた。そして自分自身でこの仕事を成し遂げ、ポルトガルが内部に入ろうとするのを防ぐ為、自分は直ぐにソルダン(the Soldão)からこの仕事の遂行に役人達に協力を指示する様に要請した』と信じる様に成って来ていた。

 

この仕事の為にカンバヤ王(the king of Cambaya)、アッヤズ王メリク アズ(Melique Az)やその他の貴族達から慈悲深い寄付として、ミール ホセムはこの3艘の船の積み荷として豊富な香辛料、布地、およびカンバヤの特産品を大量に受け取った。これら全てはモハッメド(his Mahamed)の死体の保護の為に奉納される。

 

ミール ホセム(Mir Hóçem)が最後にジュッダ(Juddá)へこれら3艘の船および商人が所有する他の船を伴って到着した時、住人達はミール ホセムが何を提案しようとしているかを知っており、町の要塞化によって住人達はポルトガルの艦隊の攻撃に対してばかりでは無く、住人達を悩ましている沙漠のバデュイムーア人(the Badhuy Moors)(ベドウイン)からも安全に成るのでミール ホセムは大きな喜びとお祭り気分で受け入れられた。

 

そしてミール ホセム(Mir Hóçem)はスルダン(the Soldão)との和平を得る為にどの様にこの仕事が着手したかについて書簡を直ぐに送った。その中で『この市が城壁に囲まれればインドの海と要塞の支配者であるポルトガルから、そして又、野蛮なアラビア人からも安全になるので、それは神へ仕えるだけでは無く、スルダンへの仕える事を尊重する事に関係している』と述べ、さらに、『これはこの市の服従のあかしとなるのでこの市はこれまで度々起こしてきた様にはスルダンに背かないだろう』と特に付け加えた。ミール ホセムの意図はこの市を抑制する要塞を築く事であったが、住民がミール ホセムの目的を疑わない様に直ぐには抑圧を始めなかった。最終的にミール ホセムはスルダンの気持ちを和らげ、スルダンはミール ホセムが要求した通りの指示を送り、ミール ホセムがインドへ攻め返す為の新しい艦隊(armada)をスエズ(Suez)で建造する様に命じた。

 

ミール ホセム(Mir Hóçem)がこの仕事を行っていた同じ時期にはカリカット(Calecut)ではポルトガルの第2代インド総督アフォンソ ダルボケルケ(Afonso d'Alboquerque)が要塞を築いていたのが分かった。ムーア人達の1艘の船がカレカット(Calecut)から商品を積んでジュッダ(Judda)の港に入港し、そしてポルトガルが確立した和平とアフォンソ ダルボケルケから与えられた認可で多くのムーア人達がそこに定住する為にその船に乗り込んでいた。アフォンソ ダルボケルケはカレカットに住んでいたムーア人達を国外に追放する為に、妻や子供を帯同する者達には特に安全通行権を与えた。

 

この船の船長でインドからこの市へ頻繁に来ていたカリフ(Calif)はムーア人達がこの市を要塞化したのを見た時、その作業を見たいと思い、ある日上陸して来た。その日はミール ホセム(Mir Hóçem)もそこに居て、ムーア人のカリフを見て、その男が来港した船の船長であると知ると、カリフにポルトガルの提督(Captain-in Chief)について尋ねた。この質問にカリフは『その要塞の建造中に自分達はカレカットを離れた』と答え、『その要塞が非常に堅固である』と讃えた。これはこの要塞を建設している作業員の聞こえる所で述べられたのでミール ホセムは非常に怒り、カリフに『汝がポルトガル人達の要塞がこの要塞よりも堅固であると自慢したのだから、汝と汝の部下は暫くここで働かなくてはならない』と言った。こうして、ミール ホセムはカリフとその随員等のムーア人達に非常に見事に着飾ったままで石や石灰を運ばせ、この作業に夜まで苦役させた。このムーア人達はカレカット(Calecut)に戻ると、『ポルトガル人達の仕事を讃えた為に、この苦役を行わせられた』とポルトガルの仲間に告げた」

 

と述べている。

 

ポルトガルとアラビアの歴史的出典では城壁の建設された実際の日付に多少の食い違いはあるが、ここではフサイン クルディ(Husayn al-Kurdi)がディウ(Diu)での敗北の後、この城壁を建設し始めたと云う最初の出典に基づく事にする。これは出来事、日付及び交戦の継承から十分にそれらしいと思われる。フサイン クルディが敵と遭遇するまえで、インドへの海軍遠征を命じている間に、フサイン クルディがこの様な重要性のあるプロジェクトに譲歩するとは信じ難い。その代わりに、ディウ(Diu)での敗北の後、フサイン クルディの逃亡のニュースがポルトガル人達に伝わり、追跡されるのを予想し、もう一度、抵抗できる様に牙城を築いたと云うのは誰にでも簡単に推理できる。

 

1458年から1511年までグジャラート(Gujarat)の王位にあり、1511年に没したカンバヤ王(the king of Cambaya)でスルタン モホメト(Sldaõ Mahomet)とも呼ばれたスルタン マハムド シャー一世(Sultan Mahmud Shah I)(1458-1511)に関するポルトガル歴史学者ジョアン バロス(João de Barros)の言及および1514年にダルボケルケ(d'Alboquerque)によってカリカット(Calicut)建てられた要塞とジッダ(Jiddah)の城壁が同時代である事に関する16世紀のポルトガルの二人の歴史家ジョアン バロスとデュアルト バールボサ(Duarte Barbosa)の記事がこの城壁建設の時期を1509年から1514年の間に制限している。

 

http://www.saudiaramcoworld.com/issue/200504/the.seas.of.sindbad.htm

A panorama of Calicut, on the Malabar coast, shows several types of ships, shipbuilding, net fishing, dinghy traffic and a rugged, sparsely populated interior. BRAUN AND HOGENBERG, CIVITATES ORBIS TERRARUM, 1572 (2)

マルバラ海岸・カリカット港

上図は1514年にアフォンソ ダルボケルケ(Afonso d'Alboquerque)によって建設されたカリカット(Calicut)の有名なポルトガルの要塞で、ギャスパー コリア(Gaspar Correa)著の「インドでの冒険事業(Lindas da India)」の中に述べられている。

 

ポルトガルの第2代インド総督アルフォンソ ダルボケルク(Alfonso d'Alboquerque)の秘書として働いたギャスパー コリア(Gaspar Correa)著の「インドでの冒険事業(Enterprises of India)」には

 

「フサイン クルディ(Husayn al-Kurdi)によるジッダ(Jiddah)の城壁建設は総督アルボケルケ(Alboquerque)がこの要塞を建設していた1514年と同じ時期であった。この要塞はインドで建設された最も防備された城であり、特別な形に作られていた。水門を通じて増援部隊、糧食および弾薬が海から直接、補充できた。それ以前の151013日にポルトガル人達の一部がヒンドゥー教の王(ザモリン(the Zamorin))の宮殿で暴れ回った事があった。その時の護衛で、インド南西部ケララ(Kerala)州のマラバル(Malabar)海岸地域を政治的・軍事的に古くから支配していたカースト(caste)から成るナーヤル(Nair)兵達は最初は躊躇していたが、やがてザモリンの宮殿を略奪していたポルトガル人達を打ち負かし、その多くを殺害し、攻撃を指揮したポルトガルの司令官(Marshal)を狭い通路で捕え、一斉攻撃(fusillade)で斬り殺した。カリカット(Calicut)の王はこのポルトガル指揮官 (Marshal)の死への報復を恐れ、王から和平の嘆願が繰り返し行われていた。アフォンソ ダルボケルケ(Afonso d'Alboquerque)に王との和平に同意する代わりに、この砦の建設費用を王の負担とさせた。この砦は際だった平和の中、ドン アンリケ メンセス(Dom Anrique de Menses)が総督だった1525年まで存続した。その時の司令官(captain)ドン ジョアム リマ(Dom Joam de Lima)は戦争を終わらせ、この砦を放棄した」

 

と述べられている。

 

アラビアの出典は実際よりも古い日付を当てはめる傾向があるが、サージャント(R. B. Serjeant) はその著書「南アラビア海岸沖のポルトガル人達(The Portuguese off the South Arabian Coast」)」の付録に「メッカの谷々のすばらしい歓待(Husn al-Kira fi Awdiat Umm al-Kura)」と云う16世紀の地理の本を翻訳し、

 

「ジッダ(Jiddah)はフサイン クルディ(Husayn al-Kurdi)によってヒジュラ歴912(1506 -1507)に防御工事が行われた。この城壁の建設は可能な限りもっとも短期間に行われ、城壁は町を陸側3方向から囲み、海側には城壁は作られなかった。イエメン(Yemenite)側の長さは800キュービット(cubit)(532m)で、東部地方に面している東側はイエメン門の側まで600キュービット(399m)であり、北門側からその城壁の角までも同じである。2つの門の間は20キュービット(13m)であり、シリア側の長さも800キュービット(532m)である。

 

それぞれの側には2つの塔がある。イエメン側の海の中の塔、東側の塔、イエメン門から出て行く人の右側にある塔、シリア門から出て行く人の側にある塔、シリア側の塔、その反対側で海側にある塔等、計6つの塔がある事になる。

 

これらの塔は東部に設けられた銃眼間の凸壁(merlon)を含め、それぞれ15キュービット(10m)である。それぞれの塔は21の銃眼間の凸壁(merlon)を持ち、その一つ一つが刻んで造られた石造り(hewn masonry)の一枚板である。塁壁の幅は3キュービット(2m)で高さは10キュービット(6.65m)である。

 

海側の町の幅は1,400キュービット(931m)である。東側の2つの塔の湾曲した部分は強力な塁壁(rampart)で、その中に戦いの為の火砲を据え付けられる。各々の門の高さは9キュービット(6m)である。各々の門の上部には戦闘の為の欄干(parapet)、狭間(embrasure)および火砲の台座が置かれている。この門は木版製で、鉄で装甲されており、厚さは1/3キュービット(22cm)もあった。自分が見て、記述している全ては歩いたり、そこに居たりする人達を出典とする権威に依存しているので、本当に神の祝福を得ている。

 

前述のヒジュラ歴912(1506 -1507)の後、ジェッダ(Jeddah)の城壁は何度か付け加えられた。その様な出来事の1つがヒジュラ歴917(1511 -1512)であり、その時のメッカ(Mecca)のバシュ(Bash)(首長)であったカビール バク アンマール ザールカシ(Khabir Bak al-Ammar al-Djarkasi)は海側の真ん中に7番目の塔を築き、イエメン側からジェッダ(Jeddah)の城壁をその塔につなげた。

 

() ジェッダの最初の城壁はマムルーク朝(Mamluk)最後のスルタン カンサウ ガウリ(Sultan Al-Ashraf Qansuh al-Ghawri)(1501-1516)の命令でメッカ首長バラカット二世(Barakat II bin Muhammed (Barakat Efendi)(1497–1525)の時代に建設された。(Wikipedia)。時代的にはザールカシはバラカット二世の別名と考えるのが妥当だと私は思う。

 

それからヒジュラ歴920(1514 -1515)にジェッダ(Jeddah)のナイブ(Naib)(副首長)であったフサミ フサイン クルディ(al-Husami Husain al-Kurdi)がシリア側に8つめの塔を建て、それに隣接した陸側にクルディは大きな門を置いた。クルディ古い港の周りに家を建て、それらを囲んで城壁や塔を建設した。これらには多くの住居と2つの大きな四角い広場が含まれていた。これらの広場では海路でインドやその他の船で到着する貨物が2つの大きな台の間に積み下ろされ、展示された。エジプトのスルタン(the Sultan of Egypt)の為に、インドその他からそこに到着する貨物への関税を徴収する為にこれらの台の上にはジェッダ(Jeddah)のナイブ、その検査官および監督者が座っていた。

 

クルディは塔に守備兵を置き、そして大砲および小さなからサビヤ(sabiyah)から成る戦闘手段を塔に詰め込んだ。ヒジュラ歴922(1516 -1517)に奔放なフランク(Frank)(西洋人達)が現れた時にこれらから大きな利益が引き出された」

 

と掲載している。

 

アフォンソ ダルボケルケの実子ブラズ ダルボケルケ(Braz d'Alboquerque)によって編集され、1557年に出版された「アフォンソ ダルボケルケの戦記(the Commentaries of Afonso d'Alboquerque)」は

 

「この土地はゼリフェ パルカト(Xerif Parcat)(首長バラカト(Sharif Barakat))に属しているが、アフォンソ ダルボケルケがそこに到着した時にはカイロの偉大なスルタンに服従していた。偉大なスルタンはそこに20人のマムルーク朝人(Mamelukes)と共に代理人を置き、この港に到着する香辛料やその他全ての商品から税金を徴収した。ここは小さな場所であり、家々の殆どは藁で造られていた。しかし、ポルトガルの初代インド総督フランシスコ アルメイダ(D. Francisco de Almeida) がルメス(Rumes) (モスリム又はアラビア人)を圧倒した時に、ミロセム(Mirocem)(フサイン クルディ) はジュッダ(Judá)に移住して来て、ジュッダを城壁で囲み、陸側にはアラルヴェス(Alarves)(アラビア人)の脅威に備えて塔を設けた。アラルヴェスは一日行程のメッカ(Méca)までの沙漠に住んでおり、この土地まで降りてきて、住民を略奪した。しかし、海側には脅威となるものは無かった。

 

ジュダ(Judá)の港は小さな島の様な岩の鋭く尖った隆起で守られて居り、陸地近くには隠れた浅瀬(bank)がある。この港は全ての方向からの風から退避できるが、この陸地には補給できる物は無く、住民は全ての必需品をソマリア北部のアデン湾(Aden)に臨む港町バールボラ(Barbora)(ベルベラ)、ソマリア海岸の西端で水や食糧の供給基地ゼイラ(Zeila)、アデン(Aden)のアラカ(Alaca)およびエリトリア紅海岸の港メスワ(Meçua)(マッサワ)から調達していた。ポルトガルの第2代インド総督アフォンソ ダルボケルケ(Afonso d'Alboquerque)が海峡内に留まっていた時代にはムーア人達はあえて航海しなかったので住人達は非常に不自由した」

 

との経緯でジッダの城壁(the Jiddah circumvallation)構築はフサイン クルディ(Husayn al-Kurdi)のインド出征の後であったのを証明している。

 

アラビアとポルトガルの出典を調和させる試みの中で「フサイン クルディ(Husayn al-Kurdi)1507年にスエズ(Suez)からジッダ(Jiddah)に到着するやいなや城壁の建設を始め、それが未完成のままでインドに出発した」との説には論議があると思われる。ディウ(Diu)の戦いの後、ジッダに戻って、他のモスリム(Moslem)の支配者達に財政援助を懇請し、援助を受け取る書状をやりとりする前に、この仕事を完成させた。このようにして、ヒジュラ歴920(1514 /1515)から始まったのがこの仕事の第二期工事である。この内容はカリファ(Kalifa)によって記録されている。16世紀のポルトガルの二人の歴史家デュアルト バールボサ(Duarte Barbosa)とバロス(João de Barros)はカリファの記録を「カリカット(Calicut)の要塞(1514)とジッダの城壁が同じ時期に建設された」との推論の根拠にしている。

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1.8 新造マムルーク朝艦隊による再攻勢

 

その一方で、マムルーク朝(Mamuluk)の艦隊が完全に壊滅させられたのを知り、インドにおけるポルトガルの地位の拡大と強化を懸念したスルタン(Sultan)のカンサウ ガウリ(Qansawh al-Ghawri)(1501-1516)はスエズで新しい艦隊を建造し、その司令官にライス スライマン(Rais Sulayman)を任命した。スライマンはサルマン ライス(Salman al-Rais)とも云い、トルコ出身の元奴隷で地中海の私掠船(corsair)海賊であった。この艦隊には30の様々な口径の火砲を備えたガレオン船(galleon)14艘と重火砲を船首と船尾に備えた6艘のガレー船(galley)が含まれていた。その乗組員はトルコ人(Turks)、アフリカ人(African)、マムルーク人(Mamluks)、イスラムに改宗したキリスト教徒(Christian renegades)等、3,000余人に及んだ。ライス スライマンはジッダへ赴き、そこのマムルーク人達と合流し、スライマン自身が上陸部隊とフサイン クルディ(Husayn al-Kurdi)の艦隊を指揮して、ポルトガル人達に対する再攻撃を開始する様に命令された。

 

スライマン艦隊がジッダに到着すると、最悪の場合を恐れたフサイン クルディはこの計画を受け入れ、新しく任命された副司令官(second-in -command)の地位で協力できる事を喜んだ。彼等の意地の悪い、頑な性格の間の合意はお互いに相手を疑っており、短い期間しか続かないことが証明された。それにもかかわらず、彼等はこの市の防御を予め固めて、1515年にスライマン艦隊への命令を完了する為にジッダを出発した。スライマン艦隊の最初の目標はポルトガル人達(Lusitanians)への戦争の前哨基地としてのイエメンの征服であり、そして戦略的に重要なアデン(Aden)が後になってスライマン艦隊を奇襲(coup-de-main)しない様に征服する事であった。第一段階として、スライマン艦隊はアデン(Aden)湾の東にあるカマラン島 (Kamaran)に上陸し、この島に要塞を築いた。スライマン艦隊はイエメンで行った全ての戦闘に勝利し、認知できる程にアデンの城壁を砲撃によって損傷させたにもかかわらず、アデンはスライマン艦隊の攻撃を退けた。

 

マムルーク人達とトルコ人達の間に起きた混乱に関する報告を受けて、エジプト人達は1516年秋にこの段階でジッダへの引き上げを決定した。エジプト人達はこの遠征の結果に失望したが、イエメン人が修復に長い間をかけなければならなかった略奪品や廃墟の通りを残したまま、自分達と共に莫大な戦利品を運んでいた。イエメンにおいてエジプト人の政策を履行する為にライス スライマン(Rais Sulayman)は副官のバールスバイ(Barsbay)を分遺艦隊と共に駐留させた。

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1.9 優柔不断なポルトガル国王

 

ヴェネチア(Venetian)の情報機関によればエジプト軍によるイエメンの占領に加え、新スエズ艦隊によるインド領内侵略の可能性の差し迫った脅威が優柔不断な(vacillating) ポルトガル国王ドン マニュエル(Dom Manuel or Manuel I)(1469-1521)に偉大な提督アフォンソ ダルボケルケ(Afonso d'Alboquerque)の本国召喚を留保させる原因となった。

 

 

151547日、新総督ロポ ソアレス アルベアガリア(Lopo Soares de Albergaria)はリスボン(Lisbon)1,500名の兵士を乗せた15艘の船から成る小艦隊と共に出航した。この艦隊にはアルメニア人でプレスター ジョン(the Prester John)(アビシニア皇帝)のアルメニア人大使マッテウ(Mattew)とアビシニア王宮 (Abyssinian court)大使に指名されたドン ドゥアーテ ガルバン(Dom Duarte Galvão)も乗船していた。マッテウ大使はアビシニア皇帝によってポルトガルとの協力関係を話し合うために派遣されていた任務からの帰任の途中であり、ガルバンは新任大使として、プレスターとその教会への豊かな送り物を携え、着任の途中であった。

 

(注)ロポ ソアレス アルベアガリア(Lopo Soares de Albergaria)の肖像は1646年ペドロ バッレト レセンデ(Pedro Barreto de Resende)による「東洋インド情勢の記録(the Livro do Estado da India Oriental)」が大英博物館に保存されている。

 

その間にも受け取ったニュースによっておおいに当惑させられ、動揺させられたドン マヌエル王(Dom Manuel or Manuel I)は東方に15艘の船を増強するのを急ぎ、新総督ロポ ソアレス アルベアガリアにアルボケルケ(Alboquerque)への司令を任せたが、ソアレス(Soares)にはその権限を領土問題解決に制限するように指示した。その一方で、アルボケルケ(Alboquerque)はエジプト(マムルーク朝)艦隊に対して紅海でもう一度、戦闘を展開し、エジプト艦隊を壊滅すべく、自分の任務の遂行に努力していた。アルボケルケ(Alboquerque)が王の命令が届く前の15151216日にゴア(Goa)で死亡したので、この曖昧な指示は実行されなかった。

 

アルボケルケは最初の権限削減の通告をホルズム(Hormuz)からゴア(Goa)へ最後の航海をしている時に受け取ったが、その後も変わる事無く、忠実に完全な献身を持って国王に仕え続けた。それにもかかわらず、この勇敢で忠実な士官に対して非道で恩知らずの国王はリスボン(Lisbon)で策謀をめぐらせ、最終的には強引で不当なやり方で指揮から外すと云う止めの一撃(coup de grace)を与えた。53歳を越えてから始まり、既に10年に及んだ東方の不健康な気候での困難で不安に満ちた役目がこうしてアルボケルケ(Alboquerque)を死なせた。

 

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